故意について

故意について

今回は久しぶりに刑事事件について書いてみます。「故意」とは何かについて。

「故意」とは、国語辞典によると、「意識して行うこと」とか「わざとすること」などと書かれています。

報道では、よく「殺意を否認」などと書かれているのを目にしますね。「殺人の故意はなかった」という主張をしたという意味です。

では、「故意」とは何でしょう?

刑事手続でいう「故意」とは「犯罪事実を表象して、かつ、認容すること」などと説明されます。しかし、これでは分かりにくいですね。

ときどき友人から尋ねられることがあります。

「『故意』って『わざと』ってことでしょ。『わざと』かどうかは内心の問題だから、他人からは分からないんじゃないの?。本人が『わざとじゃない』と言えば、証明できないんじゃないの?」

確かに故意とは内心の状態のことです。

しかし、本人が否定しても内心を証明することは可能なんです。

実は、故意の立証は外形的・客観的に行います。

例えば、包丁で刺して人を殺したという被疑事実の場合、殺すつもりがあったか否かが争点になることがあります。

このような事案の場合、外形的な事実としては、包丁の大きさ、刃渡りの長さ、刺された部位、傷の深さ、方向、幅などが外形的な事実です。その他にも、争う声を聞いたとか、被害者に防御創(防御したときにできた傷)があるか否か、それまでの被害者と被疑者との関係なども外形的な事実です。

被害者と被疑者の体格の差、性別なども外形的な事実です。借金があったとかもそうです。挙げればキリがありませんが、そのような外形的事実を積み重ねて故意という内心を証明するのです。

ですから、わざとじゃないと言い続ければ殺人にならない、ということにはなりません。

また、逆に「殺すつもりでした」という自白があってもそれだけで故意を証明したことにはなりません。

近年、再審事件などで改めて自白偏重の問題が指摘されています。

人は(裁判官も裁判員も)、自白があると安心して有罪にできるという心理が働きます。

しかし、刑事手続の原則に立ち戻って、外形的・客観的証拠から認定するということを忘れてはなりません。

自白のことを述べると、「どうして人は虚偽自白をするのか」(これもよく友人から聞かれます)についても書きたくなりますが、長くなりますので、またの機会にします(追記:コラム「なぜ冤罪は生まれるのか」で詳しく書きました)。

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